思い出に残る論文

Aggregation in vivo of cultured aortic cells of adult rabbits

2021.03.10 Wed

論文

A Wada, OJ Pollak Nature 214, 1358-60, 1967
Aggregation in vivo of cultured aortic cells of adult rabbits

「和田君、ここに載るとすごいんだよ」「和田君、こっちもすごいんだよ」
研修医になってすぐ、2年先輩のU先生に付いて一緒に図書館に行った時のことでした。U先生が指でさしたのは(みんなに読まれボロボロになった)NatureでありScienceでした。学生時代は部活に「全集中」し、課程の途中にあった研究室配属もサボって運転免許を取りに行っていた私でしたから、英語論文は恥ずかしながらまともに読んだことがありません。もっぱら日本語論文派、耳学問派でした。ですので、「ふーん」という感じでその場をやり過ごした記憶があります。
それから少し時間が経ち、大学院生活が終わり留学をしたいと考えていた私でしたが具体的な場所がまったく浮かばずU先生の紹介でS研究所に行くことになりました。なにやらすごいところらしいという予備知識しかないままアメリカ生活がスタートしましたが、慣れて周りがようやく見えるようになった時にわかったのは、まったく風采の上がらない(ように見えた)ポスドクA、B、Cさんが今で言うCNS(Cell, Nature, Science)に普通に出していた事実でした。「これなら自分でも出せるな」とまったく敷居の高さを感じることなく、ある意味その研究室の中では着任の順番通りにと言いますか、私も最初の論文をNatureのArticleに送ってみました。査読に回ることなく返ってきましたが、これも当時の常識通りと言いますかScienceのReportに送ってみました。結果は、拍子抜けするくらいに即Acceptでした。重要なタンパク質の核酸配列を決めればCNSに載った古き良き時代だったこともありますが、こんなもんかと言う感じでした。文章を短くしろなどなどの指示があり、仰せに従って最終版を送りましたが、次に送られてきたゲラを見てびっくりしました。自分で書いた文章はどこに行ったんだろうというくらいにみごとな美文に置き換えられていました。出版社の方でここまで手を入れるんだと初めて知った瞬間でした。すでに何処かの文章に書きましたが当時の研究室のボスはおおらかな人で、日々の実験に口出しすることもなく、私が深い考えもなくCorresponding Authorまで単独で取ってしまっても何も咎めたりしませんでした。その後自分の研究室を持ちましたが運営の仕方はこのボスのやり方を真似したにすぎません。自分が育てられたように、(部下を)育てるとはよく言ったものです。ちなみに当時はPDFもなく、インターネットのネの字もない時代でしたから別刷の請求葉書が500通くらい届いたのを覚えています。ただ、留学後の初めての論文でしたのでアメリカに居ればこれくらい来るのが普通なんだろうと思っていました。
ビギナーズラックもありScienceに論文が載りましたが、なんとなく周りの目が少し違って見えるように感じ始めたのはその頃からでした。ようやくU先生の言っていたことが半分実感できるようになりました。今振り返りますと、その後の研究生活はこのScienceの論文が出たことで道がひらけた感じがします。その意味ではU先生や当時のボスに感謝してもしきれません。

さて今日の話には続きがあります。父にScienceの話をしたら、思いがけず「ワシも昔Natureに載せたことがある」という返事がありました。ほんまかいなと思いましたが、当時移動したNIHの図書館で調べたら確かにありました。父をなんとなくライバルのように思った瞬間でした。よし自分も載せると思った訳です。父の論文の存在を知らなければ、一報だけで満足していたかもしれません。その後研究室が持てたのは、表題の論文があったおかげとも言えます。思えば、私は父の背中をずっと追っかけてきたかと思います。物心ついてから、病理医だった父の勤務先によく出入りし、ハムスターの世話などもさせてもらいました。医師と言うより研究への憧れの芽が育ちました。留学した父に付いて行かず日本にとどまったこともあり、中学生くらいからはあまり父と話をしなくなりました。そもそも平日は父は私が起きている時間帯には家にいませんでした。週末も特に深く話をしたという記憶がありません。父は戦前は海軍兵学校に学び軍人を目指し、戦後は医学の道を歩んでいきました。父は価値観がガラリと変わる激動の時代を生きてきました。そんな父をなんとなくカッコいいと思っていました。一昨年の9月に亡くなりましたが、満足のいく人生だったのではないでしょうか。好きなことをしたいようにするところだけはすっかり似てしまい今も家族に迷惑をかけている私ですが、父のことを書いたことがありませんでしたので、せめてもの感謝の気持ちにここに敬意を込めてしたためてみました。

和田圭司

国立精神・神経医療研究センター顧問
1955年生
1979年大阪大学医学部卒
1984年医学博士
1985〜1988年ソーク研究所ポストドクトラルフェロー
1989〜1992年NIH客員研究員
1992年国立精神・神経センター(現、国立精神・神経医療研究センター)神経研究所部長
2018年同所長
2020年現職
元日本神経化学会理事長。