きのこ×フロンティア

第8回:憧憬のクライテリア

2019.07.08 Mon

菌類・植物

第8回となる今回は、当初予定していた内容を変更してお送りいたします。実はこの1ヶ月の間で、今後の話の展開に影響する非常に大きな変化があったためです。前回の記事では、画像認識による同定補助機能を持つアプリ「Seek」をご紹介しましたが、この強力なツールを凌ぐポテンシャルを持った「黒船」がついに到来しました。その仕掛け人は、皆さんもよくご存じの「Google」です。これを実現するのはGAFAのいずれかで、かつ遠くない未来だろうとは思っていたので、特に驚くこともなく、やはり来たか…というのが率直な感想です。

従来「Google Pixel」シリーズのスマートフォンに限定されていた「グーグルレンズ (Google Lens)」の機能が、2019年6月1日のアップデートを機に、iPhoneなど他の機種でも使用可能になりました(実は2018年12月に一旦登場していたのですが、その後サービスを停止していました)。グーグルレンズを使うと、スマートフォンのカメラをかざすだけで様々なモノを読み取り、詳細な情報を確認したり、検索や翻訳にかけたりすることができます。その認識可能なモノの中に動植物をはじめとする生き物全般が含まれており、筆者が試した限りでは植物は(属レベルで)ほぼ百発百中、きのこに関しても相当マイナーな種、特に多孔菌類やコウヤクタケ類といった、多様性の高さに比して認知度の低いグループもかなり正確に言い当ててくれます。Google Pixelが登場した段階では、生き物の認識結果は今一つだという評判を目にしていたので、その時点から飛躍的な進歩があったことが窺えます。

いずれにしても、グーグルレンズの出現により、それまで数多く存在した類似のアプリ等は陳腐化の危機に瀕することになりました。SNSの要素やゲーミフィケーションといった付加価値に磨きをかければまだ望みはあるかもしれませんが、純粋な画像認識の性能勝負では、もはや太刀打ちすら能わないのではないかと思います。加えて、前回の記事でも言及した通り、このような革新的なツールがもたらす同定のコモディティ化は、「同定とは何なのか」という問いを否応なしに突きつけます。個人的には、もはや「哲学なき同定」は職能としての地位を失うだろう、という確信があります。学者間での評価は別として、一般の人々が「○○博士」に期待することとしては、「その専門分野に関して何でも答えられること」が大きな位置を占めるのではないかと思います。これまで生き物の名前を「言い当てる」ことで子どもたちや一般市民からの信頼を蓄積してきた専門家は、まさか自分が「AIに仕事を奪われる」ことはないだろうと高を括ってきたかもしれませんが、今まさに渦巻いているのは、もしかするとその存在意義を揺るがすほどの激動かもしれません。

とはいえ、ペシミスティックに過ぎるのもよくないので、ここからはポスト画像認識時代の同定論に考えを巡らせてみます。「ホールインワン」とまでは行かなくとも、誰でも容易に「グリーン」に乗せられる時代を前提とするならば、重視するべきは「パッティング」の技術ではないでしょうか。従来用いられてきた検索表では、上位から下位の分類群に向けて、可能な限り正鵠を得た、精選された形質を基に絞り込んでいくという構造上、必ずしも細かい部分(種レベル以下)の識別に関する情報が充実しているわけではありません。また、「どれにも当てはまらない」という選択肢を選びづらく、辿っていくと「どこかの受け皿に収まってしまう」ことがままあることも問題です。筆者は、個々の種について、その種に同定するにあたっての「チェックリスト」を作成してはどうか、と常日頃から考えています。これは、医学における「疾患の診断基準」に範をとったアイデアです。

架空のきのこを例に挙げると

□襞に襟帯を有する
□襞の枚数が10未満である
□ルーペで柄表面に微毛(柄シスチジア)を認める
□柄の基部は吸盤状でない
□吸水復元性を有する

 

 

 

 

…といった具合に、種ごとに「見どころ」となる形質を提示し、チェックした結果を同定の際に標本情報に付して保存してはどうだろうかと考えます。このやり方の効能としては、①観察した形質が種概念に則しているかどうかを確かめられる、②類似種との識別形質を見逃さずチェックできる、③同定のエビデンスレベルを後から客観的に検証できる、などが挙げられます。特に③が最も重要で、これは第3回の記事で筆者が強調した「根拠に基づく同定」の具体的手段でもあります。

理想的には全ての種について、このようなチェックリストがアマチュアにも扱えるような平易な形で整備されれば、正しい同定結果への道筋は今よりも格段に開かれるのではないかと思います。しかし、同時にその実現が困難であることも明瞭に認識されます。疾患の診断基準は、例えばメタボリックシンドロームの国内診断基準が8つもの学会の合同で発表されたように、多数の専門家による討議と合意を経て策定されるものです。一方、きのこに関しては、国内にもベニタケ類や地下生菌といった特定の菌群に特化した研究会が存在するものの、専門家が片手で数えるほどしか存在しない分類群も少なくない上、国内においては全くの「空白地帯」も存在するように思われます。例えば、診断基準やガイドラインの策定に実際に用いられることもある「デルファイ法」という合意形成手法には、50名以上の専門家の参加が望ましいとされています。チェックリストが新たな知見を取り入れつつ定期的に見直され、妥当性については常に批判的検討を受け続けなければならないことを想定すると、将来を見据えた上での人的資源の確保が必須であることは確かですが、現状では夢物語に近いというのが正直な所感です。

また、医学の診断基準に学べば、チェックリストの作成に必要とされる考え方や、チェックリストの欠点に関する知見も得ることができるのではないかと思います。まず、診断基準に加えられる症状や所見は「感度」と「特異度」を用いて定量的に評価されますが、きのこの形質に関しても、形質ごとに異なる「同定における識別形質としての価値」を表現するためには、この概念を導入する必要があるのではないかと思います(拙著『しっかり見わけ観察を楽しむきのこ図鑑』[ナツメ社]ではそれを試みています)。感度・特異度は量的形質の最適なカットオフ値を決定する上でも有用であるほか、同定の場面でも役立つであろう「SnNOut(感度の高い形質を欠けば除外)・SpPIn(特異度の高い形質を有せば確定)」の考え方やベイズの定理を用いた確率的推論にも繋がります。

チェックリストの欠点としては、まずは類型に依存しすぎる余り、無理にいずれかのカテゴリに当てはめたり、重要な情報を見落としたりといった、診断におけるcookbook diagnosisに陥りかねないため、運用に際しては注意が必要だと思われます。また、疾患の診断基準では多くが臨床所見と検査所見を組み合わせているのに対し、きのこの同定では検査所見に相当する情報に乏しいため、主に精神医学分野で用いられる「操作的診断基準」に近い性質となっています。すなわち、本来は表現形質の遺伝的・生化学的素因や発現機序を知りたいところですが、それは一般的に困難です。例えば2種のきのこの「傘が赤色」という時に、仮に人の眼で区別できず、RGB値すら全く同一だとしても、その「赤」が生物学的に同質とは限らず、全く異なる色素が同じ色を発しているのかもしれませんが、通常同定の場面でその情報を得ることはできません。「毒きのこ」と一口に言っても、その毒成分は様々であることと同様です。チェックリストのような手法はあくまで、実用性を主眼に置いた単なる道具なのだと割り切り、個々の形質の生物学的本質に迫る手段ではないことを認識する必要があります。

中島 淳志 (なかじま・あつし)

1988年生。2014年4月IMIC入職。安全性情報部所属。
学生時代には菌類分類学を専攻。現在は業務の傍ら、アマチュア菌類愛好家(マイコフィ
ル)として、地域のきのこの会等で菌類の面白さを伝える"胞子"活動を行う。
夢は地球上の全菌類の情報を網羅した電子図鑑を作ること。